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▲最近の世の中は実に不安定で騒然としている。政治不安を初め社会、自然災害、福祉、教育など不安一色の世の中である。その一方で、政治家、官僚、業界、その他での不祥事や犯罪、違反、不正、スキャンダルなど世の中いったいどうなっているかと思う毎日である。かてて加えて、この世はまさに遊び社会の風潮がびまんしている。カラオケ、グルメ、温泉、海外旅行、ブランドなど人々は浮かれっぱなしでいる。テレビの内容といえば昼はもっぱら浮気、病気、葬式、詐欺、離婚などで視聴率をかせぐ。これら五つの共通項は「他人の不幸は密の味」というわけだ。
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▲また、日本人の多くが中流意識に満たされ、テレビの増幅電波に酔いしれている。日本人は一年間で五百万台のテレビを棄てるといわれ、それもその90%は使えるという。 宮沢賢治は「雨ニモマケズ」の詩の中で、「丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/」と書いたが、それだけは古来、我欲は生涯つきまとうものなのだろう。お釈迦さまのコトバに「足ルヲ知ル」というのがある。人びとは「足ルヲ知ル」を承知で、自分の欲望を自制しなくても欲望を充足する手段がどんどん開発され、欲望に見合う資源を供給されてきたために、これまでいわれた「豊かさ」という実感がなくなっているのであろう。
 
   
 
 
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▲それなら時間も空間も超えて今日的な「豊かさを求める心」とはどういう人をいうのであろうか。評論家の草柳大蔵は尾花沢で芭蕉を接待した鈴木清風をあげている。奥の細道の中で芭蕉は「……かれは富める者なれど志卑しからず」と書いている。つまり、芭蕉は十泊十一日の宿泊の中で、清風宅に泊ったのは三泊、あとは養泉寺に泊った。寺であれば尾花沢の俳人たちが気軽に出入りできるだろうと、芭蕉をひとり占めもせず、町の人たちを自由に接見させている。それだけ尾花沢の人たちにとっては生涯忘れることのできない十一日間であったのではないのかと思いを馳せる
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▲このような清風の好意的演出こそ「豊かな心」の典けいではないのかというのが草柳大蔵氏の言い分である。つまり、人間は他者との関係を深めたぶんだけ自分も深まるということを自覚し、心象風景は同じ豊かさでも、裕(ゆたか)の方がゆったりとして、ゆとりのあるところが見せ場としており、このことに私自身大いに頷いた。

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