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日本出発/2月11日
▼「北極海を歩くのは、楽しさ半分苦しさ半分。今は楽しく歩ければいいなぁと思っています。あせらず、変にがんばらずに歩けるときに歩く。そんなふうに行きたいと思います。どのくらい歩けるか分かりませんが、がんばって行ってきます。」(成田空港にて)
ロシア側出発/2月23日
▼「零下20度。あまり寒くないです。じゃぁ行って来ます。」近くにハイキンにでも出かけるように出発。位置情報がつかめない
▼出発早々、大場さんの位置情報をキャッチできないトラブルが発生。応援事務局では連絡のヘリコプターを飛ばす準備をしていたが、3月2日になってようやく大場さんの位置が確認できた。
第1回補給/4月4日
▼4月1日に補給要請の信号を受信。さらに34時間後の2日午前9時56分にSOS信号を受信。補給と救援のどちらにも対応出来る体制に変えてカナダのファーストエアー社より飛行機を飛ばす。パイロットに「すべて良好。このまま極点に向かって冒険を続行します。」と大場さん。その後回収された日記から、SOS発信の理由が判明した。それによると、大場さんは補給要請の信号が届いていないのではないかと心配し、自らSOS信号のスイッチを入れたとのことだった。『体はやせて骨と皮ばかりになっているようだ。食糧制限が厳しかったのか、そのしわよせがきている。(日記より)』パイロットの報告に「鼻と唇に凍傷を負っている。鼻は一部欠けるほどひどい状態だ。」とあり、健康状態が気遣われる。
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極点までもう少し/4月19日
▼北極点までわずか19キロに迫ったところで、2回目の補給要請の信号を受信。補給機が到着するまでの五日間に、一日20キロも氷が流され続け、補給横が到着した時点では北極点から百キロ以上も流されてしまった。
第2回補給/4月24日
▼「食糧が尽きて二日間、何も食べていない。空腹で動けない。」と大場さん。悪天候のため、物資を飛行機から降下させて補給する。
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北極点に到達/5月3日・午後9時15分
▼北極点まで5キロと迫ったところで、再び大場さんの位置情報がつかめなくなる。8時間30分後に、大場さんの位置がロシア側からカナダ側に移動していることを確認する。応援事務局では、北極点到達は間遠いないものと判断。その後回収された日記にも、GPSにより北極点到達を確認していたことが判明した。北極海横斬を目指す大場さんは、そのまま北極点を通過。途中、河野兵市さんのスキーとソリの跡を発見。そのときの心境を『だれかのソリとスキーの跡を見つけた。カナダ側から来たようである。人間のにおいをかぐことが出来て、とても感動する。』と日記に記している。 |
第3回補給/5月19日
▼大場さんは四日問ほど、水と塩だけの絶食状態にあった。一時は死を覚悟してか、日記には遺書が記されていた。しかしながら、補給時の大場さんはいたって元気。レゾリユートのべ−スマネージヤーの志賀忠重さんは、およそ3カ月ぶりの再会時の様子を次のように話していた。「大場さーんと声をかけたら、本人はまるで畑仕事でもしていたかのように『あれ、志賀さんも来てくれたんだ。』と、拍子抜けするくらいあっけない再会でした。補給横が来ないので、遺書きえ書いたというのですが、あの明るさは信じられません。」
第4回補給/6月6日
▼氷の状態が着く補給機が着陸出来ず、第2回目と同様に降下による物資補給が行われる。
ついに横断成功/6月24日
▼カナダのワードハント鳥に到着。最後の二十数キロは、いたるところに乱氷帯の続く最大の難所だった。「今までで最悪です。雪が重くて思うように歩けません。」と悲痛な声が無線機を通じて届いてきた。到着地のワードハント島からは「日本晴れです。」との元気いっぱいの大場さんの声が届く。 |
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